言葉の海に出かけると。(Part2)

あれはドラえもんの辞書と格闘していた頃(7・8歳ぐらい?)

『これ以上説明できない言葉』があるのではないか、と感じていました。

それらを勝手に『言葉の原子』と命名

『お父さん、お母さん、僕は言葉の原子を見つけたんだよ!』

と一生懸命説明するのですが、さっぱり反応がありませんした。

これらの言葉、例えば、右、左、など。

では、実際に辞書で引いてみるとどうでしょう?

右:日の出るほうに向かって、南の方

次に『南』を引いてみると、

南:日の出るほうに向かって、右の方

ここで疑問に思ったのは『お互いを説明しあっているではないか?』ということ。

この説明では説明になっていないのでは?

この感覚を何と表現していいのか、、、

とにかく途方も無い不安感が襲ってきました。

言葉を知らないから辞書を引いた、

けれども、それ以上、説明できないものが存在する。

これは何を意味しているのか?

ずっと考えていると、何だか物凄く怖くなってきました。

表面上、周りに合わせて勉強をし、

テストでいくらいい点数を取ったとしても、

頭はいつも?マークばかり、、、

だって自分は『右』ですら正確に説明できない子なんだ! と。

それを

ただ

周りに合わせて

上辺だけの

勉強など、、、

本当は もっと もっと 知りたいのに。。。

全ての言葉に対する不信感、、、


自分と世界が『言葉』で繋がっているとするならば、

自分は閉ざされた闇の世界にいるのではないか、と。

不安で不安で仕方がありませんでした。


高校時代、学年TOPのクラスメートに質問を。

皆が疑問を持たずに解いている問題、あきらかに1行目からおかしい。

論理に飛躍(または破綻)が感じられます。

その疑問をぶつけたところ?

そんな考え方するやつは初めて見た。それでは他の問題も解けないじゃないか!

もう、私は、そこで勉強を諦めました。

時々、こんなことを考えます。

そういう『居場所の無い子供』の為に、場を提供できないか、と。

日本の公教育、あるいは私学でも私塾でもやっていない。

ひらすら生徒の好奇心を満足させる為の場を提供できないか、と。

教室にはたくさんの本が。

自然科学、人文科学、図鑑、各種辞書、そして今、話題になっている本。

集まってきた生徒には、一人づつ、知りたい疑問を発表し、

皆で一斉に調べ始める。どんな疑問でもOK。

その疑問、一端、倫理観は保留します。

ただし、インターネットで調べるのは禁止。

とにかく、本から調べる。

解説文がわからなかったら、一緒に皆で調べる。

ついていけない子がいたら、知ってる子が教える。

そうやって、皆で、どんどん好奇心を満足させていく。

わかった時点でみんなの前で発表。

僅か数パーセントのそれら生徒の為、場を提供するなど、とてもビジネスにはなりませんが。

彼らの苦しみを理解せず、彼らの才能にフタをしてしまうことの恐ろしさ。

世の中に、何人もの未来のエジソンは埋まっているというのに、、、

今日も、明日も、あさっても、

繰り返される『それは大人になればわかるよ』という言葉。

なんとか、救ってあげられないか、

苦しくて、苦しくて、SOSを出しているのに周りの大人、同級生も気づいていない、、、

何とかしてあげられないのか?


いつかそんな場を提供できれば、そう思っています。